織田信雄 1558ー1630
安土桃山時代の武将、織田信長の次男。
信長の主な戦いに参陣している。また、秀吉の越中攻め、小田原攻めに従軍。1581年伊賀3郡を与えられ、1582年の本能寺の変の時は伊勢にいた。同年6月の清洲会議の結果、織田家の家督は信雄でも三男信孝でもなく長男信忠の遺児、三法師(秀信)が継ぐことになり、信雄はその後見役として清洲城と尾張・伊賀・南伊勢百万石を与えられた。その後豊臣秀吉と組み、信孝を岐阜城に破り切腹に追い込むもやがて秀吉と対立。家康と結び小牧・長久手の戦で秀吉と戦っている。だがその後講和を結び、秀吉の越中攻め、小田原攻めに従軍した。ところが小田原攻めの後家康旧領の転封を拒み秀吉の怒りを買い、下野鳥山に配流され、出家して常真と号した。
叔父の有楽斎に茶の湯を学び、茶人としても知られる。
柳水(柳の水)
「黒墨」で有名な馬場染工業の敷地の奥には井戸があり、古くから名水とされた言い伝えの残る井戸水がわき出ている。現在も6:00~21:00であれば自由にお水をいただくことができる。
この地は平安時代末期に崇徳天皇(1119~1164)の御所があった所で、清泉があり、千利休(1522~1591)が茶の湯に用い、そばに柳の木を植え、水に直接に日が射すのを避けたと伝えられる。
信長の主な戦いに参陣している。また、秀吉の越中攻め、小田原攻めに従軍。1581年伊賀3郡を与えられ、1582年の本能寺の変の時は伊勢にいた。同年6月の清洲会議の結果、織田家の家督は信雄でも三男信孝でもなく長男信忠の遺児、三法師(秀信)が継ぐことになり、信雄はその後見役として清洲城と尾張・伊賀・南伊勢百万石を与えられた。その後豊臣秀吉と組み、信孝を岐阜城に破り切腹に追い込むもやがて秀吉と対立。家康と結び小牧・長久手の戦で秀吉と戦っている。だがその後講和を結び、秀吉の越中攻め、小田原攻めに従軍した。ところが小田原攻めの後家康旧領の転封を拒み秀吉の怒りを買い、下野鳥山に配流され、出家して常真と号した。
叔父の有楽斎に茶の湯を学び、茶人としても知られる。
柳水(柳の水)
「黒墨」で有名な馬場染工業の敷地の奥には井戸があり、古くから名水とされた言い伝えの残る井戸水がわき出ている。現在も6:00~21:00であれば自由にお水をいただくことができる。
この地は平安時代末期に崇徳天皇(1119~1164)の御所があった所で、清泉があり、千利休(1522~1591)が茶の湯に用い、そばに柳の木を植え、水に直接に日が射すのを避けたと伝えられる。
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