三条通を考えよう会は、京都市の歩いて暮らせるまちづくりの一環である「まちなかを歩く日(2010年11月13,14日)」に合わせて、紙媒体のマップ製作および、ブログ形式で三条通り(烏丸〜堀川)の詳細を伝えるブログを開設しました。
なお、MAPの現物は、「まちなかを歩く日」に、11時~16時まで、京町家連携キャンパス「ににぎ」(三条油小路西入る(三条堀川東入る) )にてお配りします。当日は他にも、染め体験(各日先着20名)、のぞきカラクリ体験などのイベントをしております。お気軽にお越しください。
今後の投稿予定内容は、三条通りでのイベント、名所や旧跡。そしてなによりも、歩いて楽しい三条通りの歩き方の紹介を載せていきたいと思います。
ここから、以下のページへ行くことができます。
・三条連携マップ&スポット詳細情報リンク集
・iPhoneアプリ連携のお知らせ
・4つの地区の特徴
・昔の三条通写真集
・店舗情報リンク
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2010年11月7日日曜日
2010年11月5日金曜日
三条連携マップ&スポット詳細情報リンク集
今年度は、京都市の「歩いて暮らせるまちづくり」の、「まちなかを歩く日2010(11月13、14日)」向けに、三条通にて配布するマップと連動しております。
マップは以下のリンク先からも見ることができます。PDF形式です。
「もてなし往来 三条マップ(紙版)」
・・・紙のマップと同じ形式です。両面印刷してご利用ください。
「もてなし往来 三条マップ(WEB版/地図のみ)」
・・・紙版には入りきらなかった範囲まで入った完全版です。
<各スポットの50音順リンク集>
なお、番号がつけられていないものは、WEB版MAPのみに記載されているスポットです。
あ行
7.青山露地
9.幾世稲荷社(いくよいなりしゃ)
3.板倉氏屋敷跡
15.稲荷神社
14.今尾景年(いまおけいねん)旧宅
5.越後神社(えちごじんじゃ)
12.大西清右衛門美術館(三条釜座跡)
13.織田信雄(おだのぶかつ)邸跡、柳水
か行
30.海北友松(かいほうゆうしょう)邸跡
21.柿本神社跡
27.釜座町町家
19.亀薬師
29.川崎家住宅(紫織庵(しおりあん))
41.菊地芳文(きくちほうぶん)旧宅
木下順庵(きのしたじゅんあん)邸跡
23.京都市道路元標
6.京町家連携キャンパス「ににぎ」
16.空也堂(くうやどう)
32.幸野楳嶺(こうのばいれい)邸跡
26.五色の辻(ごしきのつじ)
25.木島桜谷(このしまおうこく)生家跡
43.小結棚町会所(こゆいだなちょうかいしょ)
さ行
24.左京四条三坊跡
22.三条西殿跡
18.塩川文麟(しおかわぶんりん)邸跡
33.将軍御成門跡(しょうぐんおなりもんあと)
34.新町三井家跡
た行
20.高松殿跡(たかまつどのあと)
笋(たかんな)町会所(孟宗山)
39.田中源太郎旧宅
31.玉蔵稲荷大明神
38.茶屋四郎次郎邸跡
道祖神
な行
10.長尾郁三郎(ながおいくさぶろう)邸跡
36.南蛮寺後(なんばんじあと)
野口家住宅
は行
1.蛟松殿跡(はいまつどのあと)
40.林道春(はやしどうしゅん)邸跡
35.伴市(ばんいち)(伴家住宅)
2.毘沙門堂跡
28.廣野了頓(ひろのりょうとん)邸跡
4.古田織部正(ふるたおりべのかみ)邸跡
17.本能寺跡
ま行
11.皆川泰蔵(みながわたいぞう)邸跡
や行
8.山口華楊(やまぐちかよう)邸跡
44.横山清暉(よこやませいき)邸跡
ら行・わ行
37.煉瓦舗装跡
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マップは以下のリンク先からも見ることができます。PDF形式です。
「もてなし往来 三条マップ(紙版)」
・・・紙のマップと同じ形式です。両面印刷してご利用ください。
「もてなし往来 三条マップ(WEB版/地図のみ)」
・・・紙版には入りきらなかった範囲まで入った完全版です。
<各スポットの50音順リンク集>
なお、番号がつけられていないものは、WEB版MAPのみに記載されているスポットです。
あ行
7.青山露地
9.幾世稲荷社(いくよいなりしゃ)
3.板倉氏屋敷跡
15.稲荷神社
14.今尾景年(いまおけいねん)旧宅
5.越後神社(えちごじんじゃ)
12.大西清右衛門美術館(三条釜座跡)
13.織田信雄(おだのぶかつ)邸跡、柳水
か行
30.海北友松(かいほうゆうしょう)邸跡
21.柿本神社跡
27.釜座町町家
19.亀薬師
29.川崎家住宅(紫織庵(しおりあん))
41.菊地芳文(きくちほうぶん)旧宅
木下順庵(きのしたじゅんあん)邸跡
23.京都市道路元標
6.京町家連携キャンパス「ににぎ」
16.空也堂(くうやどう)
32.幸野楳嶺(こうのばいれい)邸跡
26.五色の辻(ごしきのつじ)
25.木島桜谷(このしまおうこく)生家跡
43.小結棚町会所(こゆいだなちょうかいしょ)
さ行
24.左京四条三坊跡
22.三条西殿跡
18.塩川文麟(しおかわぶんりん)邸跡
33.将軍御成門跡(しょうぐんおなりもんあと)
34.新町三井家跡
た行
20.高松殿跡(たかまつどのあと)
笋(たかんな)町会所(孟宗山)
39.田中源太郎旧宅
31.玉蔵稲荷大明神
38.茶屋四郎次郎邸跡
道祖神
な行
10.長尾郁三郎(ながおいくさぶろう)邸跡
36.南蛮寺後(なんばんじあと)
野口家住宅
は行
1.蛟松殿跡(はいまつどのあと)
40.林道春(はやしどうしゅん)邸跡
35.伴市(ばんいち)(伴家住宅)
2.毘沙門堂跡
28.廣野了頓(ひろのりょうとん)邸跡
4.古田織部正(ふるたおりべのかみ)邸跡
17.本能寺跡
ま行
11.皆川泰蔵(みながわたいぞう)邸跡
や行
8.山口華楊(やまぐちかよう)邸跡
44.横山清暉(よこやませいき)邸跡
ら行・わ行
37.煉瓦舗装跡
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三条周辺見どころ
4つの地区の特徴
この付近の4つの地区の特徴をまとめました。
[城巽地区]
城巽地区(元学区)の城巽は、築城が400年の二条城(東南)から辰巳(巽)の方角になることから名づけられました。
古くは平安時代、関白藤原基経の大邸宅であり、堀河院(里内裏)藤原良房の京三条院等公家邸宅がありました。また、醍醐天皇の皇子の高松殿、豊臣秀吉の妙顕寺城跡、江戸時代には大老土井利勝屋敷跡(現京都堀川音楽高等学校)や、福井藩邸跡がありました。
明治から大正・昭和10年期には堀川で友禅流しの染処の町として栄え、現代も和装工芸の職住の地域ですが、御池通に高層ビル、マンション/ワンルームマンションが建て替えられ、世帯が増加しています。
[龍池地区]
龍池地区(元学区)は、北は二条通り、南は三条通り、東は烏丸通り、西は新町通りに囲まれた地域です。
江戸後期以後、上京二十五番組小学校が創設された両替町御池あたりは、「御貸地」であり、地名がなく、明治3年に、鎌倉時代に栄えた二条関白の邸「二条殿」にあった「龍躍池」(たつやくいけ)に因んで、龍池町と命名されたことに由来しています。
[本能地区]
本能地区(元学区)は延暦13年、京都に都が遷されてから開けた所で、左京永昌坊に属し、主として貴紳の邸宅に当てられていました。
このあたりの良質な地下水を活用し、京染の生産地として発展してきました。地域には京染をはじめ伝統産業の職人が住まいし、京の暮らしを支えるものづくりや、商いがされてきました。
近年、和装産業の活力低下などにより、地域の経済力が低下し、京染などの工場が無くなった跡地に高層の共同住宅が次々と建設されるなど、町の変化が急激に進みつつあります。
[明倫地区]
明倫地区(元学区)は京都市内の中心部に位置し、平安時代から、特に織物関係の業者が多く、公家等との交流も早く、商業、経済の振興などの文化が栄えました。
「明倫」の名称は、小学校設立当時、その地にあった石門心学の私塾「明倫舎」に因んだものです。
都として、行政面からも安定する必要から社寺の建立があり、また、祭を通じて生活の安定を図りました。
祇園祭では、明倫地区内で現在13の山鉾があり、現在全部で32ケ所の建立地点を有し、民衆の理解が深まり「祇園御霊会」と称しました。かつては将軍家でさえ、行政面での日程など空けた程です。祭の目的は今も疫病退散の願いがあります。
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HOME>4つの地区の特徴
2010年11月4日木曜日
1.蛟松殿(はいまつどの)跡
平安時代の官人で、嵯峨天皇、空海とともに日本の三筆の一人、橘逸勢(たちばなのはやなり)の邸宅跡。
804年、最澄、空海らとともに入唐し、書道を柳宗元に学んだ。邸宅は1177年、大火で消失した。
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3.板倉氏屋敷跡
近世初期の板倉氏の京屋敷跡。
板倉勝重は徳川家康の信任厚く、駿府町奉行、江戸町奉行の後、京都所司代を勤めた。名奉行として数々の逸話が伝わっている。
写真は付近。
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4.古田織部正重然邸跡
戦国時代の武将(大名)で茶人。通称は古田織部、左介。
美濃山口城主の弟で、織田信長の美濃領有により家臣となる。明智光秀・羽柴秀吉の元で武将として働き、信長死後は秀吉に仕えた。秀吉が関白になると三万五千五句の所領と織部正の官位を与えられる(「織部」とは律令制度の官職名。織物、染め物等を扱った。平安以降名ばかりとなり今に至る)。
千利休に弟子入りして茶人としても活躍し、利休七哲:千利休の高弟七人の一人に数えられる。利休の追放時には細川忠興と共に利休を見送り、利休切腹後は豊臣家の筆頭茶人となる。
美濃山口城主の弟で、織田信長の美濃領有により家臣となる。明智光秀・羽柴秀吉の元で武将として働き、信長死後は秀吉に仕えた。秀吉が関白になると三万五千五句の所領と織部正の官位を与えられる(「織部」とは律令制度の官職名。織物、染め物等を扱った。平安以降名ばかりとなり今に至る)。
千利休に弟子入りして茶人としても活躍し、利休七哲:千利休の高弟七人の一人に数えられる。利休の追放時には細川忠興と共に利休を見送り、利休切腹後は豊臣家の筆頭茶人となる。
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5.越後神社
越後神社
青山路地を入ったところにある神社。室町時代に杉若越後守という武将の名から「越後町」となった町の神社。
青山家(「青山路地」の項を参照)に祀られていた鎮守社だったという。この地はもともとその青山家の屋敷の庭の池があり、池の中の島と池の回りにお宮があった。
友禅染の技術、写し友禅を開発した廣瀬治助はその青山家の屋敷を買い取り、工場を設立、庭園の池に流れる豊富な水を堀川に流し、その水で仕上げの水洗いをしたので、通称を友禅神社と言う。戦後間もなくの頃、越後神社が友禅染の聖地と知った型友禅工場の主人がここに参拝した直後、そこの染めがヒットしたと言う逸話が残る。
弁財天、福鷹龍神、福鷹稲荷大明神を祀る。
青山家(「青山路地」の項を参照)に祀られていた鎮守社だったという。この地はもともとその青山家の屋敷の庭の池があり、池の中の島と池の回りにお宮があった。
友禅染の技術、写し友禅を開発した廣瀬治助はその青山家の屋敷を買い取り、工場を設立、庭園の池に流れる豊富な水を堀川に流し、その水で仕上げの水洗いをしたので、通称を友禅神社と言う。戦後間もなくの頃、越後神社が友禅染の聖地と知った型友禅工場の主人がここに参拝した直後、そこの染めがヒットしたと言う逸話が残る。
弁財天、福鷹龍神、福鷹稲荷大明神を祀る。
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6.京町家連携キャンパス「ににぎ」
京都工芸繊維大学、京都市立芸術大学、京都産業大学、京都ノートルダム女子大学、京都市が連携して実施する「文化芸術都市京都の文化遺産の保存・活性化を支える人材育成プログラムの開発・実施」事業の拠点として、町家を借り、設置された。また、「ににぎ」は「人々が集い、にぎやかな場所になりますように」との想いを込め名づけられた。
この京町家は築100年余で、表屋造の建物。昔はここで油問屋が営まれ、虫籠窓・見世棚・通り庭・おくどさんなど、当時の名残を今も感じることができる。
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三条周辺見どころ
8.山口華楊邸跡
山口華楊 1899ー1984
大正・昭和時代の日本画家。京都府中京区に生まれる。
1912年、動物画を得意とした日本画家、西村五雲に師事する。1916年、第10回文展に「日午」が初入選。1919年京都市立絵画専門学校を卒業し、研究科に進む。一時竹内栖鳳の画塾、竹杖会にも参加。帝展に出品を続け、特選となった「鹿」「猿」などの作品で動物画家として定評を得る。1929年から1949年まで京都市立美術工芸学校・同絵画学校の教員を務めた。1980年文化功労者となり、1981年に文化勲章を受章、1982年に京都市名誉市民となった。
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9.幾世稲荷社(いくよいなりしゃ)
「西堂町文書」によると「当町中持幾世稲荷社之儀は往古応仁之此より当町東側路地奥に鎮座之有」とあるという。
何度も火災にあい、明治6年、現在地に鎮座した。
何度も火災にあい、明治6年、現在地に鎮座した。
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10.長尾郁三郎邸跡
長尾郁三郎 1837ー1864
尊王攘夷運動家。京都の町人であったが学問を志し江戸に出、平田銕胤の門下生となる。帰京後尊王攘夷運動に参加。将軍家茂(1846ー1866)上洛に先立ち、天下に尊王の大義を知らせ幕府に警告を与える目的で、1863年同志数十人とともに等持院の足利三代の木像の首を抜き取り三条河原に晒し、六角獄舎に捕らえられる。1864年、禁門の変に伴い生じた火災(どんどん焼け)の際、罪人の脱走を恐れた管理者によって殺されてしまう。
HOME>三条連携マップ&スポット詳細情報リンク集>10.長尾郁三郎邸跡
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三条周辺見どころ
11.皆川泰蔵邸跡
皆川泰蔵 1917-2005
染色家。京美工卒。ろう染めひとすじに歩み、そのモチーフを寺社庭園等に求め、世界各国を旅して取材。装飾性の強調された構図、新鮮な色彩と新技法を駆使して独創的な世界を築き上げた。
日展評議員・日本染色造形協会理事長、鹿児島女子短大教授を務めた。
日展評議員・日本染色造形協会理事長、鹿児島女子短大教授を務めた。
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12.大西清右衛門美術館(三条釜座跡)
ここは平安時代から鋳物の生産地として知られたが、1543年には8人の鋳物師の存在が確認される。茶の湯の流行とともに数は増え、1625年には88人もの鋳物師が記録されている。当時京都ではここ以外で鋳物を作る事は禁止されており、材料の購入、販売、その他の特権を有し、独自の自治的で大規模な組織となった。
現在ここには三条釜座の伝統を受け継ぐ、中世釜座の面影を残す只一軒の大西家の釜の美術館、「大石清右衛門美術館」がある。
現在ここには三条釜座の伝統を受け継ぐ、中世釜座の面影を残す只一軒の大西家の釜の美術館、「大石清右衛門美術館」がある。
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13.織田信雄邸跡、柳水
織田信雄 1558ー1630
安土桃山時代の武将、織田信長の次男。
信長の主な戦いに参陣している。また、秀吉の越中攻め、小田原攻めに従軍。1581年伊賀3郡を与えられ、1582年の本能寺の変の時は伊勢にいた。同年6月の清洲会議の結果、織田家の家督は信雄でも三男信孝でもなく長男信忠の遺児、三法師(秀信)が継ぐことになり、信雄はその後見役として清洲城と尾張・伊賀・南伊勢百万石を与えられた。その後豊臣秀吉と組み、信孝を岐阜城に破り切腹に追い込むもやがて秀吉と対立。家康と結び小牧・長久手の戦で秀吉と戦っている。だがその後講和を結び、秀吉の越中攻め、小田原攻めに従軍した。ところが小田原攻めの後家康旧領の転封を拒み秀吉の怒りを買い、下野鳥山に配流され、出家して常真と号した。
叔父の有楽斎に茶の湯を学び、茶人としても知られる。
柳水(柳の水)
「黒墨」で有名な馬場染工業の敷地の奥には井戸があり、古くから名水とされた言い伝えの残る井戸水がわき出ている。現在も6:00~21:00であれば自由にお水をいただくことができる。
この地は平安時代末期に崇徳天皇(1119~1164)の御所があった所で、清泉があり、千利休(1522~1591)が茶の湯に用い、そばに柳の木を植え、水に直接に日が射すのを避けたと伝えられる。
信長の主な戦いに参陣している。また、秀吉の越中攻め、小田原攻めに従軍。1581年伊賀3郡を与えられ、1582年の本能寺の変の時は伊勢にいた。同年6月の清洲会議の結果、織田家の家督は信雄でも三男信孝でもなく長男信忠の遺児、三法師(秀信)が継ぐことになり、信雄はその後見役として清洲城と尾張・伊賀・南伊勢百万石を与えられた。その後豊臣秀吉と組み、信孝を岐阜城に破り切腹に追い込むもやがて秀吉と対立。家康と結び小牧・長久手の戦で秀吉と戦っている。だがその後講和を結び、秀吉の越中攻め、小田原攻めに従軍した。ところが小田原攻めの後家康旧領の転封を拒み秀吉の怒りを買い、下野鳥山に配流され、出家して常真と号した。
叔父の有楽斎に茶の湯を学び、茶人としても知られる。
柳水(柳の水)
「黒墨」で有名な馬場染工業の敷地の奥には井戸があり、古くから名水とされた言い伝えの残る井戸水がわき出ている。現在も6:00~21:00であれば自由にお水をいただくことができる。
この地は平安時代末期に崇徳天皇(1119~1164)の御所があった所で、清泉があり、千利休(1522~1591)が茶の湯に用い、そばに柳の木を植え、水に直接に日が射すのを避けたと伝えられる。
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14.今尾景年旧宅
今尾景年 1845-1924
明治大正期の日本画家。
京都、友禅の染屋の家に生まれる。青年期までは家業であった友禅染の下絵描きに従事した。1869年には既に画塾を開き、国内勧業博覧会、パリ万博などで明治黎明記の展覧会・博覧会で次々と受賞した。京都後素教会(旧如雲社)設立の際は委員長となり、帝室技芸員、帝国美術院会員などを務める。
精微で写実的な花鳥画は海外でも高い評価を得た。
京都、友禅の染屋の家に生まれる。青年期までは家業であった友禅染の下絵描きに従事した。1869年には既に画塾を開き、国内勧業博覧会、パリ万博などで明治黎明記の展覧会・博覧会で次々と受賞した。京都後素教会(旧如雲社)設立の際は委員長となり、帝室技芸員、帝国美術院会員などを務める。
精微で写実的な花鳥画は海外でも高い評価を得た。
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16.空也堂
平安時代中期の念仏僧として著名な空也上人(902ー972)が、天慶2年(939)に念仏流布の拠点として三条櫛笥あたりに開いたのを発端とする。寺院ではなく念仏修行の場であったため、櫛笥道場、市中道場などと呼ばれていた。
応仁の乱で焼失したが、江戸時代の寛永年間(1624ー1644)になると、空也堂が現在の光勝寺と同じ場所におかれる。本堂には空也上人自作と言われる像を本尊として安置していた。毎年寒中になると空也堂の「鉢叩き」と呼ばれる人々が腰にひょうたんをつけ、鉦を叩きながら念仏を唱え町中を練り歩いたといい、その光景を1690年12月に目撃した松尾芭蕉は、「乾鮭も空也の痩も寒の中(からざけもくうやのやせもかんのうち)」という句を残した(ここでの空也=空也僧のこと)。
毎年11月の第二日曜日にはここで空也上人を偲んで「空也忌」の法要が営まれる(「空也忌」自体は11月13日)。
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17.本能寺跡
織田信長が明智光秀に襲われ自害・消失した本能寺は現在の場所ではなく、この堀川四条付近にあった。現在の本能寺は秀吉によって移されたもの。
2007年にはこの地の発掘調査で、「本能寺の変」と同時期と見られる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。旧本能寺の明確な遺構や遺物が見つかったのはこれが初めて。それによると当時の本能寺は堀、石垣などがある城塞並みの防備をしていたと推測される。
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三条周辺見どころ
18.塩川文麟邸跡
山水画を得意とした。安政の御所造営(1855)にて、新内裏にふすま絵を制作した。(御小座敷の間:和耕作図)画家の親睦団体、如雲社を主宰し、京都画壇の絶対的指導者に。教育者としても優れ、門下生に幸野楳嶺ら多くの近代画壇の育成に貢献した俊英を輩出。
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19.亀薬師
かつて弘法大師自作の愛染明王像が奉安され万民豊楽国家安穏を祈念する道場だったと伝わる。一町四方の広大な寺で伽藍が立ち並んでいた時期もあったと言うが、中世には衰退。浦島太郎の子息が竜宮から招いたという伝説を持つ薬師如来像を祀る堂だけが残った。それが亀の形をした台座に乗っていたので「亀薬師」と呼ばれるようになり親しまれた。天正年間(1537-92)に兵火にあい薬師堂は焼失するが、1807年には再建。現在に至る。
明治時代に廃仏毀釈の法難にあい、さらに第二次世界大戦中本尊紛失、戦後新たな本尊に不動明王を勧請。延命の御不動産と称されるように。その後残された戦前に写真を元に「亀薬師如来」を台座の亀とともに再現。奉納され現在に至る。
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20.高松殿跡
平安京三条三坊三町にあった邸宅。源高明(914-982)に始まる。高明の娘で道長妻となった明子が当初に住して「高松殿」と称され、後に藤原道長の室となった。
三条天皇の皇子小一条院の御所ともなったが、1021年、1120年に焼亡。院政期の1146年に鳥羽上皇の命により新造され、1155年に後白河天皇が当所で即位し1157年まで内裏となり、高松内裏とも称された。1156年の保元の乱の際、後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らの軍勢がここに参集して白川の地へ攻め込んだ事が有名。その後の平治の乱(1159年)の際消失。邸内に祀られていた鎮守社高松明神は、現在も高松神明神社として残る。
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21.柿本神社跡
飛鳥時代の歌人、柿本人麻呂を御祭神として祀っていた。平安建都以前より、小さな社ではあったが、生い茂った樹木に囲まれた社であったと伝えられる。
写真は付近。
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22.三条西殿跡
白川法皇が1126年に造営した。この付近は平安時代後期高級住宅街であった。
白川法皇、鳥羽上皇、待賢門院の御所として院政時代の政治の中心となった「三条西殿」の遺跡として知られている。
白川法皇、鳥羽天皇、待賢門院そろって三条東殿(姉小路烏丸東入る南側)とを行き来していたが、常在されていたのはこちらであった。白川法皇が崩御されたのもこの御所であった。
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23.京都市道路元標
京都市道路元標はもともと三条大橋にあったという説もあるが、当時の告示よりこの場所と断定できる。
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24.左京四条三坊跡
平安京・左京四条三坊九町に位置したこの地は、三条桟敷殿(床を持つ建物)として利用されたり、左大臣となった藤原実能の邸宅があったと、当時の貴族の日記に記述されている。
1988年の発掘調査によって、平安時代に作られた、島を伴う玉石敷の池のある庭園と景石、建物の柱跡等が発見された。各構造からは瓦類や土師器、須恵器の他に釉薬をまぶした緑釉陶器、灰釉陶器、さらに中国から輸入された青磁、白磁等の上級貴族の所有物とされる物も出土された。
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25.木島桜谷邸跡
木島桜谷(このしまおうこく)1877-1938
京都府出身の日本画家。
京都市の商家に生まれる。京都市立商業学校中退、今尾景年に入門。
俊英として早くから注目される。1907年から開かれた文展での活躍は目覚ましく、六回連続受賞。文展が生んだ最初の花形作家ともいわれる。
動物画の名手であり、文雅にも通じた。帝展審査員・京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)教授を勤めた。晩年は詩書に親しんで世間から遠ざかった。
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26.五色の辻
ここの地の回りには昔、法衣の店がたくさんあったことから「衣棚町」と呼ばれていた。そこから1590年の豊臣秀吉による京都大改造の際、衣棚通りが開かれた。
そのなかでもここに一番栄えた「千切屋」という問屋があり、江戸時代後期には三条室町は周囲すべてが千切屋の借家となるほどだったと言う。その建物の辻(角)の壁の色が赤、黄、青、白黒の5色だった事から”五色”の辻と呼ばれるようになった。
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27.釜座町町家
斧屋家より釜座町に寄付された京町家。その後、貸家として使われていたが、2010年、歴史遺産の保全を支援する民間団体「ワールドモニュメント財団」(WMF、米国)の助成を受け、改修された。
2010年11月13,14日に、オープンハウスを行う。以後、京町家作事組に建物を貸し、京町家再生の拠点となる予定。
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29.川崎家住宅(紫織庵)
江戸時代後期の名医荻野元凱がこの地で医院を開業。その建物をそのままに、大正15年豪商井上利助が最新のライト様式の洋間を加えて新設した。
和室部分は数寄屋の名工:上坂浅次郎が設計、一階洋間は京都工芸繊維大学・京都大学教授を務めた建築家、武田五一がフランク・ロイド・ライトの建築を参考にして設計、旧帝国ホテルと同様の外壁の石灰岩とタイルが貼られている。濠天井に寄せ木の貼り床、電熱式暖炉を設け、内装の木部はすべて優良高級材の銘木であるチーク材が使用されている。昭和40年から平成9年まで川崎家が使用していた。現在は「京のじゅばん&町家の美術館」として一般公開されている。
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30.海北友松邸跡
海北友松(かいほうゆうしょう) 1533-1615
安土桃山時代の画家。
海北家は近江の浅井家の家臣であったが、浅井長政が織田信長に滅ぼされた時主君とともに殉じたが、友松は京都の東福寺で喝食(僧侶の世話をする稚児)として暮らしていたため難を逃れた。
友松は修禅のかたわら絵を狩野元信に学ぶ。永徳風の人物を描いた若い頃の屏風絵等も現在残っている。永徳の死後、自分自身の画風を作り上げて行く。
建仁寺の大方丈に描いた「山水図」「竹林七賢図」「琴棋書画図」「雲龍図」「花鳥図」の膨大な水墨障壁画群が彼の世界を現している。(現在京都国立博物館に保管されている)
海北家は近江の浅井家の家臣であったが、浅井長政が織田信長に滅ぼされた時主君とともに殉じたが、友松は京都の東福寺で喝食(僧侶の世話をする稚児)として暮らしていたため難を逃れた。
友松は修禅のかたわら絵を狩野元信に学ぶ。永徳風の人物を描いた若い頃の屏風絵等も現在残っている。永徳の死後、自分自身の画風を作り上げて行く。
建仁寺の大方丈に描いた「山水図」「竹林七賢図」「琴棋書画図」「雲龍図」「花鳥図」の膨大な水墨障壁画群が彼の世界を現している。(現在京都国立博物館に保管されている)
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32.幸野楳嶺邸跡
幸野楳嶺 1844ー1895
明治期の日本画家。
塩川文燐に入門して四条派を学び京都府画学校設立に尽力、自らも副教員となる。フェノロサの京都公演に刺激され、京都青年絵画研究会の開催を発起するも事志にそわず一時名古屋に。皇居後造営に当たり杉戸絵などを揮毫。再び画学校に関係し、従来の東西南北を改め東洋画、西洋画にする改革に関与。帝室技芸員などをも務める。
私塾などを通して竹内栖鳳や菊池芳文、上村松園ら多くの俊秀を出す優れた教育者でもあった。
塩川文燐に入門して四条派を学び京都府画学校設立に尽力、自らも副教員となる。フェノロサの京都公演に刺激され、京都青年絵画研究会の開催を発起するも事志にそわず一時名古屋に。皇居後造営に当たり杉戸絵などを揮毫。再び画学校に関係し、従来の東西南北を改め東洋画、西洋画にする改革に関与。帝室技芸員などをも務める。
私塾などを通して竹内栖鳳や菊池芳文、上村松園ら多くの俊秀を出す優れた教育者でもあった。
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33.将軍御成門跡
衣棚通りは南端、三条-六角間で道幅が狭まる。この通りを了頓図子と言う。
(図子とは通り抜けが出来るよう袋小路を貫通させた通路。)
安土桃山時代の茶人、廣野了頓の邸宅があったといわれる場所。
廣野家は足利家代々の従臣であり将軍義輝のときにこの地を領有。
了頓はここに茶亭を構え、茶道を広めた。豊臣秀吉、徳川家康らがここを訪れた。
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34.新町三井家跡
貞享3年(1686年)、三井中興の祖といわれる三井高利が買得して京都両替店を開き、江戸、大阪、京都の三都両替総本店とした。邸内にあった常盤殿(もと光照院門跡の寝殿を移築していた)は現在、八坂神社に移築されている。
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35.伴市(伴家住宅)
店舗棟と居住棟を玄関棟でつないだ表屋造形形式の京町家。1911年には現在の姿になっていた。
主室と次の間から成る座敷は数奇屋風で、主室は床・棚・平書院を構えて、棚の天袋・地袋に池大雅の墨絵を貼る。京都の町家は明治から大正期に座敷を改築する傾向があるが、当家もその一例。
京都市指定有形文化財。
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36.南蛮寺跡
南蛮寺とは切利支丹寺、伴天連寺ともいわれるキリスト教布教所の俗称。
京都におけるそれがここであった。安土桃山時代に安土に神学校を建てた、G・オルガンチノ神父(イエズス会)が1576年「聖マリア御上人寺」として献堂。献堂式にはキリシタン大名、高山右近も参列したという。しかし、1588年豊臣秀吉の伴天連追放例により破却された。1970年代にこの地から多くの資料が発掘された。2002年にはこの跡地で415年振りに、南蛮寺を偲びミサが捧げられた。
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38.茶屋四郎次郎邸跡
茶屋四郎次郎
安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した京都の豪商。「茶屋四郎次郎」の名を当主は襲名した。早くから家康に側近として仕え各地の戦場に出陣。
初代茶屋清延(1545ー1596)は本能寺の変をいち早く家康に伝えたり、家康の三河への伊賀越えに物心ともに支援を行った。この恩より徳川家康の御用商人となる。二代目茶屋清忠(生年不詳ー1603)野代より京・大阪の物流の取締役に任命、優遇されるようになる。三代目茶屋清次(1584ー1622)は朱印船貿易の特権を得、主にベトナム北部に船を派遣した。家康死の原因とされる「鯛の天ぷら」を家康に勧めたのは清次と言われる。
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39.田中源太郎旧宅
田中源太郎 1853ー1922
明治大正期に京都で活躍した実業家。京都・亀岡で生まれる。
京都で漢学や政経を学び、京都銀行の前身、亀岡銀行の設立や、のちに京都証券取引所となる京都株式取引所、京都府会議員、議長、京都株式取引所頭取をはじめ多数の会社の役人を兼ねる。現在の立命館大学の前身、京都法政学校の設立にも賛助員として加わっている。政界においても1874年桑田郡追分村戸長、衆議院、貴族院の議員をもつとめる。維新以降衰微した京都経済界の振興に協力。
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40.林道春邸跡
林道春 1583-1657
江戸前期の儒学者。林道春は通称。号は羅山。京四条新町に生まれる。
初め建仁寺で内典(仏書)、外典を幅広く習得し学んだが、儒学、なかでも宋学に開眼する。1605年、二条城で徳川家康(1542-1616)に仕え、その命により剃髪して道春と称す。幕府の文書を作成し幕政整備に関わる傍ら、駿河と京都を行き来し、以心崇伝らと共に古記録の書き写し、出版、集書など京の学問の復興に努めた。
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41.菊池芳文邸跡
明治・大正期の日本画家。四条派の幸野楳嶺に学ぶ。
1882年、第一回内国絵画共進会展に出品した「修学院白雨図」が銅賞。京都画壇・四条派の正統を受け継ぐ画家として画壇に立った。花鳥画に優れ、作品に「花鳥」「山水」「菊に雀」「小雨ふる吉野」など。
京都市美術学校の教諭、京都青年絵画共進会の審査員、京都絵画専門学校教授、帝室技芸員などを務めた。
写真は付近。
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42.天神山町会所
1886年頃の建物。「町席」と称する10畳の座敷に釣床をもうけ、玄関には式台を備える。土蔵は江戸時代後期の造営で中に天神祠を安置している。現在は会所家、土蔵、大日堂が建つ。天神山は祇園祭のとき霰天神山を出す町。
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